私たちができる日常の禅
道元禅師の教えは、特別な修行道場に行かなくても、日々の暮らしの中で実践することができます。
坐禅や読経だけが修行ではありません。掃除、歯磨き、食事――何気ない日常の一つひとつにこそ、仏の教えを生きる場があるのです。
修行の目的は、悟りを開くことだとか、特別な境地に達することだとか言われることもありますが、道元禅師の教えを、もっと私たちの日常に引き寄せて考えてみると、こう言えるのではないでしょうか。
「あの人、なんだか素敵だなぁ」と思ってもらえるような生き方をすること。
あるいは、「ああ、今の自分ってちょっといいな」と、自分で思える瞬間をたくさん持つこと。
その積み重ねが、仏道の実践であり、禅のこころにつながっていきます。
ここでは、そんな日常の中で実践できる「禅」のかたちをいくつかご紹介します。
トイレの使い方 ― 清める心、整える人
道元禅師は、トイレ(東司/とうす)での所作についても細やかな教えを残しています。
用を足すときの姿勢や心の持ち方、清潔に保つこと、そして他の人への思いやり。これらすべてが仏道の実践です。
たとえば、自分が汚したわけではない。誰も見ていない。でもそんなときに、黙ってきれいにして出ていく人がいます。
そういう人って、「なんだか素敵だなぁ」って思いませんか?
それは、単なるマナーや気配りを超えて、すでに仏の心を生きている姿だといえるのです。
歯の磨き方 ― 自分を整える静かな時間
歯を磨くことも、道元禅師にとっては大切な修行の一部でした。
口を清めるという行為は、同時に言葉を清め、心を整えることにつながっていきます。
朝の静かな時間、心を落ち着けて歯を磨く。
そのとき、使っていない間は水を止めながら、丁寧にブラシを動かしている自分に気づくことがあります。
出しっぱなしではなく、こまめに水を止める。たったそれだけのことですが、そこに思いやりと自制心が現れています。
「なんだか、自分ってちょっと素敵だなぁ」と思える、そんな瞬間です。
それは、誰かに見せるためではなく、自分自身に恥じない生き方をすること。禅はその積み重ねなのです。
食事のいただき方(赴粥飯法) ― 感謝をもって、いのちをいただく
道元禅師は、食事を「仏のいのちをいただく尊い行い」として受けとめ、その心得を『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』という書にまとめました。
食事の前には心を落ち着け、静かに手を合わせて感謝を伝える。一粒一滴を粗末にせず、作ってくれた人や命への敬意を持つ。
そこにこそ、仏道の実践があります。
いのちをいただく食事の場は、ただの栄養補給の時間ではありません。心を育てる時間でもあるのです。
食事の作り方(典座教訓) ― 台所に宿る仏のこころ
道元禅師は、修行道場で食事を作る役職である「典座(てんぞ)」に向けて、『典座教訓(てんぞきょうくん)』という教えを残しました。
そこにはこうあります。
「作る心を先とせよ。味を先とすることなかれ。」
つまり、味よりもまず「心」が大切だということです。誰かの健康や幸せを願って、真心をこめて料理をする。
それ自体が、尊い仏道の実践であると説かれています。
料理が得意かどうかは関係ありません。ただの作業としてではなく、思いやりをこめて一品を仕上げる。
その姿はきっと、まわりの人に「あの人、素敵だなぁ」と感じてもらえるはずです。
道元禅師の教えは、すべての人の日常に根ざしています。禅は特別な人のものではありません。
今日から、いまこの瞬間から、誰もがはじめられる仏道の歩みです。
「自分を調え、他者を思い、日々を丁寧に生きる」。それが、私たちにできる「日常の禅」です。

